dorothy ashby
のこのアルバムがすごく好き
朝に聴きたい
手術から20日が経って、相変わらず顔は腫れていてマスクなしでは外出できないし食べ物も麻痺しているから上手に食べられない 食欲やきれいにするという欲?そう見られたいという欲?が制御されて少しずつ不安定になっている
おまけに昨日の病院で傷口が膿んでいることと、経過がよくないのでもう一度手術をすることになる(今度は局部麻酔でいいそうだけどすごくこわい)というのを聞いて絶望した
夜になって、生活の不安やこんなこと続けていてもなにになるんだこんにゃろうというヤケで涙がちょちょぎれていたけど つかの間の感傷で、時間と言うものはきちんと前向きな希望をどこかで見いだしてくれるものだ
彼と話してぐっすり眠ればわたしはまたなんとか掃除洗濯朝のコーヒーをいれて盆栽に水をあげることができる
生活のそういう動きは精神衛生上とても良い
ひとつひとつ片付く度に きちんと落ち着く
顔が変わるということ
手術前まではあまり意識していなかったけど顔が変わるということはそれなりに大きな意味がある様に思う。
23年間見慣れた顔がすこしでも(ミリ単位でも)意図的に変わると、大きな違和感が生まれるし、すこしアイデンティティがゆらぐんじゃないか
自分が自分であることの一つの要因に自分の顔があるから、?
それとも、我思う、故に我あり。というようにそんなものはなんの意味も持たず、ただの飾りに過ぎないのか
わたしの顔を認識するのは、わたしであり、他人である。でもわたしはわたしのことを完全な第三者的な目線で見たことはもちろんない。鏡で見みるのがやっとなのだから。
ということは、本当の意味で認識するのは他者だけであり、他者からの視線によって自分が形成されている
自分という存在をどれだけ考えても、まるで空洞であり、がらんどうであり、空虚なものに感じるのは、自分なんて身の詰まった意味のある存在は一つ(単体)では絶対に存在しえず、他者から認識されてはじめて二本足で立っているのではないか
眠れない夜
朝5時に目がさめる生活
今病院に入院している。ちょうど一週間くらい。
病院はあまり好きじゃないからこんなに長くいたら気が滅入るだろうなあとおもったら本当に気が滅入りそうだけど、無抵抗というかそういう気分になってきて、すすんで早寝早起き生活をして、先生のおしえをまもりはやく退院できるようにと思ってる。
東京は梅雨入りしたらしいのに窓から見える景色は良い天気ばかりでうらやましい。
外を散歩するという簡単なことができないだけでこんなに体内になにかが溜まるとは思わなかった
昨日は、いきなり好きな人がきてくれて、お花と(うすいグリーンと黄色のバラ)好きな雑誌を持ってきてくれる
看護婦さんは優しいし入院生活悪いこ!とばかりではない
変わったことといえば、手術後前より匂いに敏感になった気がする。ICUのときは看護婦さんが近づいて来ると女の匂いに息がウッとなって自分もこんな匂いさせているのかなと思った。
それと考える時間が長すぎてばかみたいに考えていたらいつもすこし死にたくなる。ちょっと死にたい。そんな感じ
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シンプルであるということ
物事もそうである