読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

11月なのに雪

56年ぶりらしい

今朝起こっていること、おばあちゃんの容態が急変

お父さんが急いで三重に帰る

わたしはあたふたと送り出すけど、なんとも気の抜けた気持ちでそんな自分の状態がずいぶん場違いな感じがする

昨日のよるみほが帰り遅くて、わたしたち母とわたしはふたりで話し手情報を共有しあった、つまりわたしは聞かれるがままに知っていることを話して、男の人しかも白人男性に限ってとやりまくってることなんかはもちろん言ってないけどバイトをしてること、彼女たちは長い間ふたりで話し合っていた

わたしにはできないこと。つまりわたしは誰かのことでしか母と話し合えないので

自分のことを心配している人と目を見合って話すことができないのはいったい人間としかどこが弱いのか

自分のよわさは分かるのだけど ウィークポイントがわからない

怠けてる自分

今は11月24日で木曜

中村君のこと好きだけどわたしもやらなきゃいけないことがあるとそうじゃなきゃ一緒にいれないなと思う人

おはらくんに昨日の夜電話しちゃったのはほんとに魔がさしたというかいきおいにまかせてすぐ切って生きてるか不安になったりして、でも人はそう簡単に死なないしわたしはまっすぐ生きるしかなくてそこに枯れそうな花があっても写真はとれてもつんでかえることはできない わたしたちはすれちがいながら生きてゆくしかないし どれだけ密接な関係を作れたと思っても そんなもの それこそ枯れゆく花のように儚いんだから 時間という絶対的な効力には誰もかてなくて

そこにしがみついてると 痛い目にあうのよ

誰かがなにか言って 我何か思う ずっと後になってね

言葉のこと 絵のこと 手織りのこと

多和田葉子さんの言葉と歩く旅

言葉についてこれほど考えている人っているのかとか思ったけれどこの世には言語学者とよばれる人もたくさんいて、言葉は毎日使うのに、そうやって意識しないとその人たちや言葉の本質は見えない。言葉は在って、動いて行く、時間とともに

そしていつも寄り添う

たとえば 日本語である表現のおかげで わたしたち日本人の本質というもものが読み解けたり

そう最近もみほが言語が違うと言うだけでこうも分かりあえないと思うのは不思議といっていて、あのこはとても考えている だからわたしはこわいのかもしれない

来年の春からはぜったい一緒に住めないと思う

そのことについても考えなければいけない

どこでなにをするか

絵のこと

一昨日、休みの日ひとりで上野の東京都美術館に行った。ゴッホゴーギャン展。まずこのふたりは19世紀に生きていた

そしてフランスで出会い、一時期はともに住んだ

そのときゴッホは耳を切った

そこでふたりの共同生活は終了した

この作品展はそういうふたり に重きをおいていた

例えば会場によって壁の色がちがう。そこにお互いの手紙の内容が書いてあったりする

そこには情熱と苦しい思いがうかがえた

絵を描き続けることの苦しさ

わたしはそこに描かれる絵をみて特に心動かされることはなかったけど背景を知りたいと強く思った

バルビゾン派なんていわれても全然ぱっとしないのだもん

美術史をまなぼう

そして絵をかこうとおもう

きのうはそのことばかり考えて 仕事おわりに銀座へ行き(この時期の銀座のすてきさよ。やっぱり好きだなあ)、花を買って、伊東屋でスケッチブックを買った。みゆきかんにも顔をだして佐藤さんや松丸さんと話した。

でもなんだろうお尻がむずがゆい心地ですぐにかえってしまった

みっつーがご飯に誘ってくれたけどとてもきちんと出来る気がしなかったので

わたしは 最近サリンジャー

演技をするんだ、ザガリーグラス。という言葉に引き寄せられていて

これには、中村くんが目の前で貸してくれた村上春樹の新作の短編の一作目の内容、演技をすることについて描かれてる俳優のはなし も影響してるんだけど。

とにかく演技をするんじゃないかなって思うわけです。

俳優だけじゃなく。わたしたちは演技と言う言葉をもう少し広義にとらえて、生きながら演じる べきじゃないかなって

つまり、演技がうまく行かない日もあるということ

ああまとまらない言葉

手が冷えてゆく

今年は手があんなことにならないように気をつけなきゃいけないし あれが一年前だと思うと こわい わたしは湯たんぽも見つけられない

さあ